神明宮写真
寿老神イラスト

神明様のよもやま話〜宮司のコラム〜

【第3回】復興の碑文のこと

 当社の創建以来、深川の地は水害にあうことも一再ならず、地震火災の災禍も度々でした。近くは関東大震災と昭和二十年三月十日の大空襲で、神明さまの鎮まりますご本殿こそ奇跡的に焼失を免れましたが、社務所・神楽殿等の神社施設はもとより、氏子町内は灰燼に帰してしまいました。
 写真は、関東大震災・戦災のさらにその前、明治十四年の大火で神社が被災した後、実に二十年の年月をかけた復興を記念する碑文です。当時の大勢の氏子の方々の多年にわたる並々ならぬ労苦の末に、みんなの神社が見事に復興した喜びにあふれた文章です。石碑自体は先の戦災のB29の爆撃により残念なことに焼失してしまいましたが、碑文を写し取った拓本が幸いなことに今も現存しているのです。
 この三月十一日の東日本大震災では、東日本全体に大きな被害があり、特に東北地方では津波に加えて原発事故によって甚大な被害がもたらされました。私も、五月に一度、そしてこの九月にも江東区の神職仲間とともに宮城県の海岸部の神社にお見舞いに行ってまいりまして、仙台近郊はずいぶんと復興している印象を受けましたが、その先の石巻市以東では、余りにも大きな被害に「未だ復興の道遠し」という現実を目の当たりにいたしました。
 被災地の皆様には心からお見舞い申し上げるとともに、日本がこういう状況にある今だからこそ、幾多の災禍から逞しく復興したわが深川の先人の跡を偲ぶことに些かの意義もあるかと思い、ここに碑文の全文をご紹介したいと思います。




-深川鎮守天祖神社中興記-

 (原文は漢文で読みにくいので、意訳して書き下します。原文は写真を参照してください。)

碑文画像 深川の地はその昔、海辺の土地だった。慶長元年、将軍徳川家康がこの地を巡視し、一人の農夫に会い、呼び寄せて地名を問うたところ、答えて曰く、住むものも無き故に地名もありません。では貴方の名はなんというか、と問われ、深川八郎右衛門と申します。と答えると、家康は八郎右衛門の姓「深川」を取って地名とし、且つこの土地を開拓するよう命じた。
 八郎右衛門は、かねてから所蔵していた「太神宮」と書かれた後土御門天皇のご宸筆一幅を屋敷の傍らにお祀りして、土地の守り神とした。やがて多くの人々が移り住んでだんだんと賑やかな村となったので、再び人々と相談してこの地に伊勢神宮のご分霊をお祀りして人々の幸せを祈った。そのころは「深川総鎮守神明宮」と言われた。この後に大いに発展して、三十ケ町と数十村が氏子となった。明治になって区画は一変し、氏子区域は僅かに十六ケ町となった。そして「天祖神社」という名前となり、神格は郷社となった。明治十四年一月のある日、神社は火災にあって氏子町内のほとんどが焼失した。火災の後、各町は相談して総代を選んだ。多くの人たちが多くの年月をかけて募金をすること今年で20年になる。ついに社殿、神庫、舞楽台、社務所、門、華表等を造営した。また隣地を購入して境内を拡張した。さらに土地を買って借家とし、神社の収入を図った。境内地の広さは昔に戻り、社殿の荘厳さは昔よりも倍した。神威は赫々としている。というわけで、昔は荒れ果てた海辺の土地だったのが、今は賑やかで多くの人が住むところとなった。しかし、神社の氏子区域がとても広いわけではないのに、このような大工事を成就することができたのは、何といっても各町で神さまを敬う素晴らしい誠意を発揮したからであり、総代の苦労のおかげである。この機会に、重要な役職についた七十人ほどの人たちの功績を石碑に刻まないわけにはいかないと、社司の林氏がやって来て私に文を書くように頼んだ。私の家は十代にわたって氏子に住み、神さまの恵みを受けることはとても深い。それで、謹んで神社の由来と造営の経緯を以上のように書いた。時に明治三十四年秋九月である。

原 履信 謹撰
岡崎清馨 敬書
井亀 泉 刻

 

※脚注
宸筆 ・・・ 天皇陛下がお書きになった文字(掛け軸など)。
郷社 ・・・ 明治から戦前の社格制度で、官幣社・府県社に次ぐ。現江東区内では、富岡八幡宮・亀戸天神社が東京府社。香取神社と当社が郷社である。
華表 ・・・ 中国の伝統建築様式に用いられる標柱を言うが、ここでは鳥居のこと。
撰・書・刻 ・・・ 文を書いた人が「撰」、文字を書いた人が「書」、石に刻んだ人が「刻」




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十二の御輿絵