神明宮写真
寿老神イラスト

神明様のよもやま話

【第1回】 林家と神明宮

先日、作家の林望さんが当社を訪ねて見えまして、桜なべのみの家で楽しく会食する機会を得ました。林望さんは、書誌学・近世文学を専門とする日本文学者であると同時に、みなさんご承知の通り「イギリスはおいしい」「イギリスは愉快だ」などのイギリスシリーズをはじめ、多くのベストセラーをものした著作家のリンボウ先生として知られています。実は、林望さんと私は「遠縁の」親戚で、いわば同じ「林一族」なのです。
 今回、宮司のコラムとして「神明さまのよもやま話」というページを開くに当たり、その第1回として、神明宮の社家の「林家・内野家」の話を取り上げてみます。実は何年か前に、元東京大学総長、歴史学者の故林健太郎先生(リンボウ先生の伯父さんに当たります)の一周忌の法要にお招きを受け、その席で林家と深川神明宮の関わりについてお話させていただき、こうしたことを語り継ぐことにも些かの意義があるかと思い、ここに再録する次第です。


 深川神明宮は江戸時代には泉養寺の僧侶が別当職でしたが、明治維新の後、神仏分離により、縁あって林家が神職を勤めることになりました。初代が林克一、次が林精一、林五助、内野淑(きよし)と続いて、私・内野成浩で林家の血統としては五代目となります。


 林健太郎先生は、さすが歴史学者だけあって、家の歴史、ルーツ、といったことに殊のほか敬意を払われました。林家の血統を訪ねて当社にもしばしばお参りされ、また私の祖母や父の葬儀、年祭にも会葬参列して下さり、ご挨拶もいただいたことを良く覚えております。林健太郎先生の家と、私の家の繋がりは、正確な系図が残っていないため、残念なことに詳らかではありませんが、初代の林克一の弟が健太郎先生の家の初代になるのではないかと推測されます。これには一つ面白いエピソードがあり、親族の集まる席で先生をご紹介するとき、父が「林家の本家の健太郎先生です」と申し上げると、健太郎先生が「いやいや本家にご挨拶に参った分家の健太郎です」と仰るのが常で、父はよく、普通の本家争いは「うちが本家だ」といって揉めるが、林家の本家争いは「お宅が本家だ」といって揉める、と言って笑っていました。


 さて、林家と言いながら、今当社の宮司の姓は「内野」に変わっております。この経緯も事のついでにお話しすると、私の父・内野淑は、林五助の次男として生まれ、当時の倣いで遠縁の親戚の内野家の跡取りがなかったため、幼くして内野の姓を継ぎました。ただし、ふだんの生活は変わらず、お宮から八名川小学校、府立三中(今の両国高校)に学び、次男であったため船乗りを志して清水の高等商船学校(今の海洋大学)に進みました。戦時中のことで、繰上げ卒業で海軍少尉に任官するところ、寸前で終戦を向かえ森下の地に帰ってきましたが、空襲で深川の町は焦土と化し、お宮は灰燼に帰していました。林家の人たちも、私の祖母の林ムメを除いてはみな空襲の犠牲となり、お宮を守り伝えるものとしては父だけが残されていました。そのようなわけで、父・内野淑が五代目の宮司となり、そのときに姓を林に戻すことも考えたようですが、父が相続した内野の家に些かの財産があり、上野にあった家屋敷を処分したお金を原資にして、戦後の神明宮の再建をいたしました。父は、そのお蔭を多とし、内野の姓を以て神明奉仕に努めることにした、と聞いております。
 林健太郎先生は、ドイツ史を専門とされた歴史学者でしたが、これは世界史に比べれば、本当にささやかな、お宮と林・内野の家にまつわる歴史のお話です。

 

▲ページトップに戻る
祭りの記憶
十二の御輿絵