深川の地を初めて開いた深川八郎右衛門が創建した「深川発祥の神社」
徳川氏の関東入国から間もない慶長元年(1596)、家康公が当地を巡視されたおりに、深川八郎右衛門を呼びよせ、地名を尋ねました。「まだ住む人も少なく地名もない」と応えると、家康公は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じました。 深川の地名の発祥は、神明さまの鎮座する実にこの地なのです。以来、深川の地は江戸の繁栄とともに賑やかな町となり、深川氏は開拓の功績により代々深川二十七ヶ町の名主を務めました。 深川氏は宝暦七年(1757)に七代で断絶しますが、菩提寺の泉養寺(市川市国府台)に今も墓所が残っています。
今からおよそ四百年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人もまだいませんでした。その頃、深川八郎右衛門(摂津の人と伝えられる)が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手しました。八郎右衛門は神さまを敬う心が篤く、屋敷のうちに小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の大神さまのご分霊をお祀りし、開拓民の幸せと、深川の地の発展を祈念しました。 これが、深川神明宮の起源です。そして深川の地の発展とともに、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか深川総鎮守神明宮と称せられ、多くの崇敬を集めるようになり、今日に至りました。
神明さまのご祭神(おまつりしている神さま)は天照大御神さま、伊勢神宮の内宮の神さまです。天照大御神さまをお祀りした神社を「神明さま」といい、全国にはたくさんの神明社があります。伊勢の神宮との深い繋がりから、第五十九回のご遷宮の際には、御鏡・御太刀・御盾のご神宝をいただき、ご本殿に大切にお納めしています。
また、当宮のご鎮座四百年祭に当っては、第六十一回のご遷宮のときに解体した内宮東宝殿の御柱が撤げ下され、当宮儀式殿の玄関にお飾りしています。
▲御神宝
▲撤下古材の飾り柱
「神社の特徴」と言いますか「神社の神社たる所以」というのは、もしかすると「引っ越さないこと」ではないかと、私はこのごろ思うのです。
もちろん、神社もごく稀に特殊な事情により引っ越す場合もあり、これをご遷座と言いますが、ひとたび其処に祀られたなら、幾百年、幾千年とその地に鎮まり坐しますのが、まずは普通でしょう。深川神明宮も、深川八郎右衛門翁がこの森下の地に神明を奉祀して以来、四百有余年の間、動くことなく同じ処にあるわけです。その点、お寺さんは、森下から猿江、そして今は市川の国府台と変遷した神明宮別当の泉養寺の例にもあるように、ときには移転することもありますし、いわんや神社仏閣にあらざる一般のお宅や会社は百年の間も移ろわない事は稀でしょう。そうしますとやはり、「引っ越さないこと」を「神社の特徴」として挙げることは、大方のご賛同を得られるのではないでしょうか。
この、「引っ越さない」「動かない」という神社の性質は、必然的に神社には昔からの話がいろいろと語り継がれる、という結果を招来します。実際のところ、私のところには、お宮に関わることはもとより、町内のこと、興味深い人たちの消息など、もろもろの興味深い話が蓄積されているような気がいたします。それを、私一人の楽しみにするのは何か勿体ない気がいたしまして、ここに宮司の語る「神明様の四方山話」と題して、語り伝えるのも無駄ではなかろうと思われるお話を、一つ二つと順番に書き残してみよう、と考えた次第です。
先日、作家の林望さんが当社を訪ねて見えまして、桜なべのみの家で楽しく会食する機会を得ました。林望さんは、書誌学・近世文学を専門とする日本文学者であると同時に、みなさんご承知の通り「イギリスはおいしい」「イギリスは愉快だ」などのイギリスシリーズをはじめ、多くのベストセラーをものした著作家のリンボウ先生として知られています。実は、林望さんと私は「遠縁の」親戚で、いわば同じ「林一族」なのです。
今回、宮司のコラムとして「神明さまのよもやま話」というページを開くに当たり、その第1回として、神明宮の社家の「林家・内野家」の話を取り上げてみます。実は何年か前に、元東京大学総長、歴史学者の故林健太郎先生(リンボウ先生の伯父さんに当たります)の一周忌の法要にお招きを受け、その席で林家と深川神明宮の関わりについてお話させていただき、こうしたことを語り継ぐことにも些かの意義があるかと思い、ここに再録する次第です。
深川神明宮は江戸時代には泉養寺の僧侶が別当職でしたが、明治維新の後、神仏分離により、縁あって林家が神職を勤めることになりました。初代が林克一、次が林精一、林五助、内野淑(きよし)と続いて、私・内野成浩で林家の血統としては五代目となります。
林健太郎先生は、さすが歴史学者だけあって、家の歴史、ルーツ、といったことに殊のほか敬意を払われました。林家の血統を訪ねて当社にもしばしばお参りされ、また私の祖母や父の葬儀、年祭にも会葬参列して下さり、ご挨拶もいただいたことを良く覚えております。林健太郎先生の家と、私の家の繋がりは、正確な系図が残っていないため、残念なことに詳らかではありませんが、初代の林克一の弟が健太郎先生の家の初代になるのではないかと推測されます。これには一つ面白いエピソードがあり、親族の集まる席で先生をご紹介するとき、父が「林家の本家の健太郎先生です」と申し上げると、健太郎先生が「いやいや本家にご挨拶に参った分家の健太郎です」と仰るのが常で、父はよく、普通の本家争いは「うちが本家だ」といって揉めるが、林家の本家争いは「お宅が本家だ」といって揉める、と言って笑っていました。
さて、林家と言いながら、今当社の宮司の姓は「内野」に変わっております。この経緯も事のついでにお話しすると、私の父・内野淑は、林五助の次男として生まれ、当時の倣いで遠縁の親戚の内野家の跡取りがなかったため、幼くして内野の姓を継ぎました。ただし、ふだんの生活は変わらず、お宮から八名川小学校、府立三中(今の両国高校)に学び、次男であったため船乗りを志して清水の高等商船学校(今の海洋大学)に進みました。戦時中のことで、繰上げ卒業で海軍少尉に任官するところ、寸前で終戦を向かえ森下の地に帰ってきましたが、空襲で深川の町は焦土と化し、お宮は灰燼に帰していました。林家の人たちも、私の祖母の林ムメを除いてはみな空襲の犠牲となり、お宮を守り伝えるものとしては父だけが残されていました。そのようなわけで、父・内野淑が五代目の宮司となり、そのときに姓を林に戻すことも考えたようですが、父が相続した内野の家に些かの財産があり、上野にあった家屋敷を処分したお金を原資にして、戦後の神明宮の再建をいたしました。父は、そのお蔭を多とし、内野の姓を以て神明奉仕に努めることにした、と聞いております。
林健太郎先生は、ドイツ史を専門とされた歴史学者でしたが、これは世界史に比べれば、本当にささやかな、お宮と林・内野の家にまつわる歴史のお話です。
コラムの第二回では、神明さまの氏子の誇りである、宮神輿のことをお話します。
当社の宮神輿は、昭和九年、行徳の神輿師・後藤直光の作による、台座四尺四方の千貫神輿です。何と言ってもその特徴は、漆塗りの段葺き屋根の美しさ。一目で後藤作とわかる段葺き屋根の神輿は都内でも珍しく、その中でも最大の神輿です。
この宮神輿については、亡くなった先代宮司の内野淑から、不思議な話を聞いていますので、真偽のほどはともかく、一つのエピソードとして、この機会にお話ししたいと思います。昭和九年に、新調した宮神輿を夏の祭礼で初めてお披露目したときには、行徳から漁師衆がやって来て、揃いの白装束で神輿を担ぎました。行徳衆の神輿の担ぎ方は、それは見事で、息の合ったものだったそうです。そして、先代宮司の話では、行徳衆は森下の交差点で宮神輿を投げ上げ、神輿が宙に浮いた間にポンと拍手(かしわで)を一つ打ったと言うのです。当社の宮神輿は、それはそれは大きな神輿ですから、それを投げ上げ、しかも拍手を打った、というのは、にわかには信じがたい話です。しかし、我が家の夕食の食卓で、晩酌をして上機嫌になった先代宮司から、私は確かに何度もこの話を聞きました。もちろんビデオの映像など無い時代の話ですので、今となっては真偽を確かめる術もありませんが、一つの都市伝説?として、語り継いでいきたいと思っています。
神輿の担ぎ方については、町の古老からこんな話を聞いたこともあります。今日では、深川の神輿というと、わっしょい、わっしょい、の掛け声とともに、ずんずんと前へ前へと進んでいくのが正当な担ぎ方とされています。そのときに、屋根の鳳凰を、しゃんしゃんと音を立てて揺らすのが、担ぎ上手というわけです。ところが、戦前は、担ぎ手がちょうど「おしくらまんじゅう」の様に、四方を向いて(つまり神輿に背を向けて)担ぎ棒に取り付き、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしながら担いだというのです。そして、お祭りの寄付をケチった家に、それ行けとばかり神輿を突っ込んで、軒を壊す悪さをしたそうです。今では考えられない話ですね。
今ではもちろん、神輿の巡幸は、警察署の許可を得た上でルールを守って行います。神明さまの祭礼は、おかげさまで毎回、大きなトラブルや事故も無く、警察の方からも「品位のあるよいお祭りだ」との評価をいただいています。この点につきましては、氏子の皆様のご協力に感謝申し上げるとともに、今後とも益々のご協力をお願い申し上げます。
当社の創建以来、深川の地は水害にあうことも一再ならず、地震火災の災禍も度々でした。近くは関東大震災と昭和二十年三月十日の大空襲で、神明さまの鎮まりますご本殿こそ奇跡的に焼失を免れましたが、社務所・神楽殿等の神社施設はもとより、氏子町内は灰燼に帰してしまいました。
写真は、関東大震災・戦災のさらにその前、明治十四年の大火で神社が被災した後、実に二十年の年月をかけた復興を記念する碑文です。当時の大勢の氏子の方々の多年にわたる並々ならぬ労苦の末に、みんなの神社が見事に復興した喜びにあふれた文章です。石碑自体は先の戦災のB29の爆撃により残念なことに焼失してしまいましたが、碑文を写し取った拓本が幸いなことに今も現存しているのです。
この三月十一日の東日本大震災では、東日本全体に大きな被害があり、特に東北地方では津波に加えて原発事故によって甚大な被害がもたらされました。私も、五月に一度、そしてこの九月にも江東区の神職仲間とともに宮城県の海岸部の神社にお見舞いに行ってまいりまして、仙台近郊はずいぶんと復興している印象を受けましたが、その先の石巻市以東では、余りにも大きな被害に「未だ復興の道遠し」という現実を目の当たりにいたしました。 被災地の皆様には心からお見舞い申し上げるとともに、日本がこういう状況にある今だからこそ、幾多の災禍から逞しく復興したわが深川の先人の跡を偲ぶことに些かの意義もあるかと思い、ここに碑文の全文をご紹介したいと思います。
深川の地はその昔、海辺の土地だった。慶長元年、将軍徳川家康がこの地を巡視し、一人の農夫に会い、呼び寄せて地名を問うたところ、答えて曰く、住むものも無き故に地名もありません。では貴方の名はなんというか、と問われ、深川八郎右衛門と申します。と答えると、家康は八郎右衛門の姓「深川」を取って地名とし、且つこの土地を開拓するよう命じた。
八郎右衛門は、かねてから所蔵していた「太神宮」と書かれた後土御門天皇のご宸筆一幅を屋敷の傍らにお祀りして、土地の守り神とした。やがて多くの人々が移り住んでだんだんと賑やかな村となったので、再び人々と相談してこの地に伊勢神宮のご分霊をお祀りして人々の幸せを祈った。そのころは「深川総鎮守神明宮」と言われた。この後に大いに発展して、三十ケ町と数十村が氏子となった。明治になって区画は一変し、氏子区域は僅かに十六ケ町となった。そして「天祖神社」という名前となり、神格は郷社となった。明治十四年一月のある日、神社は火災にあって氏子町内のほとんどが焼失した。火災の後、各町は相談して総代を選んだ。多くの人たちが多くの年月をかけて募金をすること今年で20年になる。ついに社殿、神庫、舞楽台、社務所、門、華表等を造営した。また隣地を購入して境内を拡張した。さらに土地を買って借家とし、神社の収入を図った。境内地の広さは昔に戻り、社殿の荘厳さは昔よりも倍した。神威は赫々としている。というわけで、昔は荒れ果てた海辺の土地だったのが、今は賑やかで多くの人が住むところとなった。しかし、神社の氏子区域がとても広いわけではないのに、このような大工事を成就することができたのは、何といっても各町で神さまを敬う素晴らしい誠意を発揮したからであり、総代の苦労のおかげである。この機会に、重要な役職についた七十人ほどの人たちの功績を石碑に刻まないわけにはいかないと、社司の林氏がやって来て私に文を書くように頼んだ。私の家は十代にわたって氏子に住み、神さまの恵みを受けることはとても深い。それで、謹んで神社の由来と造営の経緯を以上のように書いた。時に明治三十四年秋九月である。
原 履信 謹撰
岡崎清馨 敬書
井亀 泉 刻
※脚注
宸筆 ・・・ 天皇陛下がお書きになった文字(掛け軸など)。
郷社 ・・・ 明治から戦前の社格制度で、官幣社・府県社に次ぐ。現江東区内では、富岡八幡宮・亀戸天神社が東京府社。香取神社と当社が郷社である。
華表 ・・・ 中国の伝統建築様式に用いられる標柱を言うが、ここでは鳥居のこと。
撰・書・刻 ・・・ 文を書いた人が「撰」、文字を書いた人が「書」、石に刻んだ人が「刻」